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前田真三の美しい絵です.


An essay : テクノロジーの進歩と人間について. (2001.1.4)

21世紀がはじまりました.Information technology (IT) の革新的な流れが世の中を渦巻いています.かくいう私もインターネットやデジタル放送,デジタル録画など,情報伝達法のめまぐるしい進歩に夢中になっている一人です.デジタル情報の処理に関しても,つい数年前まではパソコンレベルではとてもフルカラー動画を処理する事などできない状況だったものが,その性能および記憶媒体の進歩によって,軽々とメガバイトの情報量を秒単位以下のスピードで処理できる機械を安価で購入でき,扱えるようになったのですから,驚きというほかはありません.数年前までは100万円も200万円もかかる設備投資でようやく医局に購入したデジタルビデオ編集システムで学会のビデオセッションの準備をしていたものが,最近では自室のパソコンで手軽に,しかも従来よりもずっと美しくキャプション入れやトランジッション効果などをいれながら編集できるようになりました.もういっぱしの放送編集局といった感じです.自宅においても同様にインフラの進歩はひたひたと押し寄せてきており,私の住んでいる集合住宅にはNTTの光ファイバーが届いていて,すぐにでも光ファイバー経由の高速のインターネット通信ができるお膳立てが出来上がっているのです.もうすでにそんな時代になっているのですね.

私たちが扱っている医学的知識の分野や医療技術の分野でも,その進歩改新のスピードは実にすさまじく,10年前の知識や技術ではとうてい現時点での常識的医療提供が出来なくなってしまう,というほどです.医者以外の人たちから見れば,学会学会といって出かけていっては外来診療に穴をあける私たちの姿勢に首をかしげたくなるむきもあろうかとは存じますが,この急流のごとき医療知識の増加更新や新技術の提案試行の状況をつかまえておかなくては,日常的診療のレベルにかかわるのです.


とにもかくにもテクノロジーというものには進歩があります.情報およびその位置づけ,技術の変化およびその価値付けはすさまじいほどの時間の流れの中で変貌し,あっというまに時代遅れのものになってゆきます.

では,このように科学技術を担っている人間,という存在にも,同様に進歩というものがあるのでしょうか.

そもそも人間が,あるいは人間社会が進歩する,という概念は独特のものではないでしょうか.これはあくまでも一つの理論であり,決して,絶対普遍の真実として受け入れられるべきものではないと考えられませんか.

この人間社会進歩論には,明らかにメシア思想にその源があると考えられます.メシア思想を生んだ厳しい砂漠の地.その中で人間は格闘し,自然に挑み,征服し進んでゆく.その過程で,不完全であり,それがために罪に堕した人間存在が神の導きをいれながら救済される.その持続,その時間性こそが歴史であるという思想です.キリスト教の中に脈々と流れているこの歴史意識は,私が青春時代をおくった1960年代〜70年代に最後の隆盛を極めんとしていたマルクス主義思想にも色濃く焼きついていました.マルクスは人間の精神が進歩し時代と社会を変えてゆくというメシア思想的概念を逆立ちさせ,社会構造の土台たる経済体制の進歩が人間の精神を進歩させ変革して理想社会に向かってゆく,とする独特のユートピア論を展開し,虐げられている労働者階級を鼓舞し,次の精神構造の担い手として期待していったのです.さらに生物科学の立場で提案されたダーウィンの進化論が,巧妙に社会進歩論に組み込まれていって,歴史の中で人間存在自体が”進化”してゆくのだ,とする思想が近代〜現代を席捲してゆきました.この考え方によれば,たとえば100年前に生きた人間,あるいは人間社会と現在の人間(社会)とを較べてみた時,100年前の人間が古くさく,価値が低く,現代人の方がより多くを所有し,よりかしこく生きているということになるはずです.いわんや,中国の古典や古代ギリシャの悲劇など,現代人にとっては夢枕の戯言以外の価値はなく,歴史的骨頭物として知識に収めておくだけの価値と位置づけられてしまうでしょう.

しかし,本当にそうなのですか.人間存在に進歩というものが,果たしてあるのでしょうか?


情報技術の進歩の渦の中で,同時進行的に社会構造の大胆な変更が迫られるほどに戦後日本の社会構造の硬直化やひずみ,よどみが表面化してゆき,その中で生きている若者も,そしていままでの価値観と体制に慣れてくらしてきた中年以降の人間たちも,この渦流に巻き込まないように必死にもがいているように見えます.新しい技術を獲得すること,その中で場を占め得ることが,その人間の価値であり,それが出来ない人間は意味のない存在として落伍してゆく,そんな単純な教育構造でがんじがらめになっているのが,現在の日本の状況ではないですか.

そもそもテクノロジーとは,人間が使う道具の延長上にあったものですし,今後もあるべきものです.人間が,それを用いて便利であり,楽であり(苦が軽減でき),余裕をもてるために発達させてきたのが道具であり,科学技術であったはずです.しかし,では何のために人間が便利になり,楽になり,余裕を必要とするのか,その芯の部分がなければ,そもそも道具の存在意義が成り立たなくなることにはなりませんか.

たしかにテクノロジーの進展によって人類は,厳しく長時間におよぶ生存のための肉体労働から開放され,生命が危険に瀕するような温熱や寒冷からの回避を達成し,飢餓や病気から開放され,身体の損傷によっておこる不自由の軽減を達成してきました.(しかし注意すべきは21世紀を迎えた現在になっても,なおこの達成が地球上のすべての人間に及んでいない事です.驚くほどの不均等,不平等がこの地上にはまだまだ残っています.さらに深刻な事には,テクノロジーの不均等な発達によって地球環境が危機的なまでに破壊されてきている現実に対して,進歩し続けるテクノロジー自体が,いまだ決定的打開策を提案できるに至っていない,という問題があることです.ですが,このエッセーの中ではそれはとりあえず措きます.)この意味では,たしかにマルクスが言うように,人間社会の土台たる経済構造の進歩改良が人間存在を一定規定することは事実でしょう.かつてはほんの一握りの特権的人間にしか許されなかったような余暇と安楽を,現代では実に多くの人が普通に享受できるわけですが,その意味において,です.しかし暇を持ち,安楽な状態が維持でき,便利になった人間は,その余裕ある生をどのように生きるべきなのか,その観点が欠落してしまうと,本末転倒に陥ってしまいます.この点がつきつめられないと,ともすれば,教育は道具や知識技術の習得の場のみとなってしまい,道具を使って本来の人間の生を生きることをめざす事がおきざりとなって,めまぐるしく進展変化するテクノロジーという道具にいかに上手に仕え得るか,という事で価値がおしはかられる,というまさしく倒錯的状況がやってくることになりがちです.まさにこれこそが,現代日本の教育現場(学校教育であろうと,塾通いに子供を追い立てる家庭教育であろうと)の現状ではないでしょうか.嘆くべき転倒が次世代を育てる社会の現場で浸潤拡大しています...

本来,人間存在とはどのようなものなのか,という基本的な命題がまず問われるべきなのです.学問を教え知識を詰め込み,技術を習得させる,これも勿論大事な教育の軸でしょう.(当然の事ながらテクノロジーの進歩は今まで以上に必要とされてゆくでしょうから.その進展によって現代の地球環境にもたらされた破壊の修復策が出てこなければなりませんし,たとえば私たちのかかわっている医療の分野でも,解決すべき課題はまだまだ山ほどあるのです.)しかし,それと平行して,あるいはそれ以前に,テクノロジーを使って人間は何を生きるのか,その命題を問いかけ続ける努力が求められているのです.


私は人間存在,というものには一貫した存在法則がある,と信じています.それは歴史が始まって以来,あるいは文字による伝承より遙か以前から,脈々と続いてきた,人間である限り固有の存在論,という意味で,です.この人間存在という一貫した位置づけがあるからこそ,私たちは千年以上も前の古書に感涙を覚えたり,100年以上も前に作られた旋律に心震わせたり出来るわけです.つまり,人間存在の構造には進歩,という概念は当てはまらず,それは独特の,不朽の位置づけとして捉えられるべきものなのです.この位置づけをしっかりと踏まえ,その尺度基準からしてテクノロジーという道具の中で,これを上手に利用しながら人生を生きてゆく,というあり方が追求されるべきだ,と考えます.

人間存在の基本的なあり方とはどのようなものか.この命題について突き詰めて考えたものが20世紀の実存哲学,あるいは実存主義だったのではないでしょうか.同じく20世紀という時代に花開き,矛盾の吹き出しを見せながら消褪してゆきつつあるマルクス主義と同様に,より地味ではあるが世紀を代表する思想として花開きながら,100年を経ないうちにすでに忘れ去られようとしている実存主義(ないし実存哲学).実存主義の雄たるサルトル,実存哲学を静かに説いたハイデッガーやヤスパースたち.思想が吹き出しでくるような説き方をしたベルジャーエフ...21世紀を迎えた今,私は,これらをもう一度本腰を入れて捉えなおしてみる必要を訴えたいのです.臨床心理学の分野においても,フロイトの生物学的な精神構造の把握やユングの民俗学的神秘論的説明を離れて,人間実存の規定に基づく精神病理の解釈や時代精神に関する見解を問いかけ続けた精神分析学者がいました.エーリッヒ・フロムがその人です.彼の業績を今一度ふりかえって見る必要があるのではないでしょうか.


長い文章になってしまいました.今日はここで筆を置きます.機会を見て,フロムの示した人間存在論などを御紹介してゆきたいと思っています.


お口直しに,リルケ(Reiner Maria Rilke 1875-1926) の詩をどうぞ.

「時祷集」 より  (富士川英郎 訳)

その生活のかずかずの矛盾を宥和し

あなたは彼の孤独の相手

感謝してそれを象徴のうちに捉える者なら

彼の独白の静かな中心だ

騒々しい人たちを邸宅から   追いやって

そしてあなたをめぐって引かれたすべての円が

別の祝宴をひらくだろう

彼のために時の外に圏を画いている.

そしておだやかな宵に

彼が迎え入れるあなたはその賓客だ

Wer seines Lebens viele Widersime


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