(聖路加国際病院・心臓血管外科 渡辺 直)
全身臓器に不断に血液を送り続けるポンプ---心臓.心臓に外科的な手を加えるためには,特別な仕掛けが必要となります.人工心肺装置と呼ばれる機械です.この装置を用いて行う手術が開心術(open heart surgery) と呼ばれるものです.
たとえば,心臓弁膜症の患者さんに弁置換術(病気に冒された弁を切除して人工弁を縫着する手術)を行う場合,心臓の壁の一部を切開して内部に到達するわけですが,単純にこのようなことを行えば,切開したとたんに大出血がおこり,全身への血流は途絶えてしまうわけです.
したがって,手術をする際には,
心臓の中がからっぽになっていて,壁を切開して中を覗けることが必要であり,
同時にこの間,全身にはきちんと血液の循環が維持できていなければならないのです.
このような手品のような事を可能にするのが,人工心肺装置なのです.
人工心肺装置の仕組み:
この装置の工夫を理解するためには正常の血液循環について知る必要があります.
まずは全身の血液循環について...
心臓の主要な働きの一つが全身臓器に絶え間なく酸素を供給する事です.(酸素は細胞が活躍するためのガソリンであり,活動の後の出る排気ガスが二酸化炭素です.)心臓の左側の部屋(左心室)から送り出される血液は酸素が満ちた血液であり,動脈血と呼 ばれます.左心室の強い収縮力で大動脈(500円玉の直径くらいある太いパイプ)に駆出された動脈血は各臓器への動脈に運ばれて行きます.毛細血管を通じて各臓器,組織に酸素を 渡した血液は二酸化炭素(炭酸ガス)を受け取って静脈系に入って行きます.この静脈血が 上半身からは上大静脈へ,下半身からは下大静脈へと合流し,心臓に戻って行きます.(右心房という部屋に戻って来ます.)この血液(静脈血)は酸素が少なく二酸化炭素が多い ため,そのまま動脈系に送っても各臓器に栄養を送ることにはなりません.そこで静脈血は 右心房から右心室を介して左右の肺に送られて行きます.肺の中を一周する間に血液に 酸素が浸み込み,二酸化炭素が逃れていって,静脈血は動脈血に生まれ変わり,左心房 に流入して来ます.左心房→左心室と進んだ動脈血が左心室の強力な収縮力で大動脈に 送られて行くのです.
*参考までに
動脈血は鮮やかな紅色をしています.(やくざ映画やアメリカのバイオレンス系の映画で人が傷つけられた時に噴出する,真っ赤な色,あれです.) これに対して酸素が減った静脈血は青紫色をしています.病院や診療所で採血を受けたり,献血する際に自分の血液を見て ”どす黒いな,” とがっかりした人もいると思います.心配には及びません.あなたの動脈にはしっかり,真っ赤な血潮が流れているのです.
(体外循環の仕組みを知るためには最初に正常の循環を理解する必要があります.)
そこでようやく,人工心肺の仕組み:
右心房(あるいは右心房を介して上下の大静脈)にパイプを挿入すると心臓に帰ってこようとする血液はこのパイプに脱けてゆきます(脱血).この血液は酸素が少ない血液なので,このまで全身の動脈系に送り返しても意味がありません.そこで脱血された血液を酸素化器に通すのです.この酸素化器は,人間の肺と同じ役割を果たすので人工肺とも呼ばれます.
酸素化器を通った血液は大動脈の上側に挿入したパイプを介してポンプ(人間の心臓のかわり)の力で全身動脈系に送られてゆくのです.このように身体の外に血液循環を形成することになるので,人工心肺法を,別名,体外循環とも呼びます.
心臓に戻ろうとする血液は(ほとんど)すべて脱血パイプに脱けてゆくので心臓はからっぽになります.この状態で心臓の壁に穴をあけても中に血液は満ちてきませんので弁膜や先天的構造異常に対する手術治療を行うことができます.その間,全身の循環は人工心肺装置がしっかりとまかなう,とうわけです.
心筋保護について:
(この項目を理解するためには,人工心肺の仕組みを知る必要があります.)
実際の開心術においては,上の図にあるように大動脈を送血チューブより心臓側で遮断して行うことが多いのです.(大動脈遮断)
その理由は:人工心肺からの送血が心臓の方に流れていって心臓の筋肉を栄養する動脈(冠動脈)に流れてゆくと,心臓は収縮を続けます.この状態では細かな心臓内(あるいは心表面)の作業は不可能です.また,大動脈弁の手術では大動脈の根本部分を切開するわけですが,大動脈遮断を行っていないと血の海で手術になりません(上の図をみて 想像してみてください).大動脈遮断を行えば人工心肺の脱血によって心臓に血液は戻って来ず,送血のチューブを介してポンプから送られる血液も心臓にだけは来ることがありません.ほかの臓器が人工心肺によって十分な血流を受けながら心臓だけが循環から隔絶され,からっぽになって,心筋に血 液を供給する冠動脈血流もなくなるので収縮もせず,静かに止まった状態になるのです.これで細かい心内作業が可能になります.
⇒ところが,ここで問題が生じます.
大動脈遮断を行って手術を続けるあいだじゅう,心臓の筋肉には血流が行かない,という事はつまり,心臓の筋肉がどんどん酸欠になってゆく,ということなのです.何の工夫もしなかったら,30分もしないうちに心臓の筋肉は腐っていってしまうのです.(ちなみに脳は血流を途絶させると5分くらいで脳死してしまうのですが,心臓の筋肉はもう少し我慢できます.それでも30分が限度というとことでしょう).せっかく心臓内の細かい構造について手術が出来ても,終わってみたら心筋は腐っていて心臓が動きませんでした,というのでは冗談にも何にもなりません.
そこで:心筋保護法という方法を用いて,心臓を守るのです.
これは簡単にいえば,心臓の筋肉を”冬眠させる”方法です.いろいろな方法がありますが,最もスタンダードな方法を図示すると下図のようになります.
心臓のまわりに冷水あるはシャーベット状の氷をおいて,心筋の温度を10℃以下に冷却する.これによって心筋の代謝が鈍り酸素の要求度が減ります.
心臓内の手術操作を20〜30分に一度やめて,大動脈の根本近くに差し込んだ管から特別な心筋保護液という液体を注入します.この液体の組成にもいろいろあるのですが,血液+心停止液,というものが一般的です.血液は 人工心肺回路に戻ってくる血液を一部引いて用います.心停止液とは心筋が 完全に収縮をなくすような薬(カリウムなど)を主体とした薬液です.この心筋保護液が間歇的に冠動脈内に流れてゆくことによって心筋に血液中の酸素と栄養と解毒物質などの成分が送られ,酸欠状態になっている心臓に一時の”憩”を供給します.さらに心臓の収縮を完全に停止させる液体が入ることによって心臓の細胞が必要なエネルギー量,ひいては酸素の量が極端に少なくなります.
以上2つの方法の組み合わせで心臓の筋肉は”冬眠”状態に入り,これであれば数時間の心内操作を行っても,心筋が悪くなって収縮を失うようなことはなくなります.最近では,あまり長時間を要しない心内(あるいは心表面)の操作については心筋の冷却は行わずに心筋保護液のみの注入ですます場合も多くなりました.心内操作終了後の心臓の”冬眠”からの醒めが早く,手術時間が短縮できるからです.
どのように心臓に到達するのか:
開心術のほとんどの場合で,上の図左の胸骨正中切開法によって心臓に到達します.胸の中央で,鎖骨の付け根真ん中より数cm下の部分からみぞおちの少し下まで,まっすぐに縦に皮膚切開を置きます.その下層には胸骨(いわゆる胸板)があります.この骨は成人で幅5〜7cmほど,長さは鎖骨の付け根からみぞおちまで,厚さにして1cmほどの板状のものです.(この胸骨と,背中側を縦走する背骨との間に弓なり状の肋骨がはまって胸郭を形成しているのです.開心術の際にはこの骨を真ん中で縦割りにします.そして断端を万力のような道具(開胸器)で広げるとその下に心臓を包む袋(心のう)が見えてくるので,これを前面で切開して心臓に到達するのです.
胸骨を縦断する,というと,なんだかかなり痛そうな感じがするかもしれませんが,実際には肋間神経のくさむらの中に切開を加える肋間開胸術よりずっと痛みが少ないのです.縦断した胸骨断端は糸針で縫うわけにはいきませんので,針金(胸骨ワイヤ)で締め付けて閉鎖します.このワイヤ(ステンレス鋼あるいはチタン製)は術後ずっと胸骨の中に埋めたままにしてしまい,通常抜去することはありません.このワイヤが入っていても身体に悪影響はありませんし,通常のエックス線写真検査や CT,MRI などの検査も問題なく受けられます.胸骨がワイヤによって支えられている間に,いわば人工的な骨折である胸骨縦断端はしだいに癒合してゆきます.この癒合が完成するのは通常3ヶ月〜数ヶ月です.この後であればどれほど上半身に負担のかかる労作や運動でもこなせるようになります.
小切開開心術:
最近,単純な種類の開心術では,より切開創を小さくして手術を行う事が増えてきました.たとえば上の図の真ん中に示したように胸骨を全長にわたって縦断せずに,下半分(あるいは上半分)だけを切開して視野を作り,手術をできる場合があります.下半分の切開ですむ場合には傷が鎖骨の近くには及ばないので,女性で襟首の広く開いた服を着る場合でも傷が見えることがない,といったメリットがあります.また心房中隔欠損症のように心房のみの操作ですむような,ごく単純な開心術では上図左のように10cm弱の乳房下横切開で手術か可能です.これだと傷は乳房の下に隠れて目立つことがありません.もちろん,こうした小さい視野での手術には,それだけ技術的な困難性が伴うものであり,複雑な開心術や大動脈の手術には適しません.心臓の手術が潜在的あるいは顕在的に生命に危険を及ぼすような疾患に対する治療である事を考え,安全性,確実性と美容をよく秤にかけて切開法が選択されるべきです.
開心術にはどのような種類の手術があるか:
冠動脈(心臓の筋肉を栄養する動脈)の病気(狭心症,心筋梗塞)に対して血行再建を行う手術----冠動脈バイパス術など
心筋梗塞による心室瘤の切除や心破裂の修復
弁膜症に対しての手術---弁置換術(人工弁を入れる),弁形成術 (弁を修復する)
先天性の心異常(心臓の構造の異常)に対して修復をする手術---心室中隔欠損症,心房中隔欠損症,肺動脈狭窄症,チアノーゼ性心疾患など
厳密には心臓の手術ではないために”開心術”とは言えませんが, 近位大動脈の病気(上行動脈や弓部大動脈の瘤や解離など)に対しても同様に人工心肺を用い,同様の工夫(心停止,心筋保護)を採用した手術が行われます.
心臓内腫瘍の摘除術(心房粘液種の切除など)
心不全に対する外科治療----心臓移植,拡大心筋切除術など
頻脈性不整脈に対する外科治療---心室頻拍/細動,心房細動に対する根治術
開心術の危険性は?
開心術は上述したように 人工心肺法(体外循環法)を用いて,そして多くの場合,大動脈遮断,心筋保護下に行われます.
人工心肺を用いる,という事は身体の外に血液循環を作る,という事であり,血液を人工的なパイプや人工肺の中 を通す,という事を意味します.血液は異物に触れると固まる,という性質があるため,何もしなければ人工心肺装 置の中で血液が凝固してしまい,循環が成り立たなくなってしまいます.そこで体外循環中はヘパリン,という薬剤を用いて血液を完全に固まらなくするのです.心内操作が終わり,人工心肺装置をはずせるようになった所でヘパリ ンを中和する薬剤(プロタミン)を投与しますが,完全に血液凝固性が正常化するわけではなく,このために,どうしても開心術では術後出血がおこりやすい, という問題点が生じます.
大動脈遮断,心筋保護下での手術では,心内操作が終わったところで大動脈遮断を解除して冠動脈に血流を復活させます.これにより心筋は”冬眠”から目覚めて収縮を再開するわけです.しかし,冬眠状態からもとの心臓の収縮力にたちまちのうちに復活するわけではなく,通常,これには数日間を要するのです.従って心臓の手術が終わった直後では心臓の収縮力は術前よりもかなり低下した状態になっているのです.この間は人工的な心不全が発生するわけで,このために開心術後は強心剤や血管拡張剤,利尿剤などの投与,時には心補助装置を駆動して集中治療室で厳密な管理を受ける必要が出てくるのです.----- 手術の効果が現れて心臓の機能が術前よりよくなる前に,この,術後早期の心不全を乗り気らなければならない,これが開心術の大きな問題点の一つです.
人工心肺を回転させるためには右心房(あるいは両大静脈)と上行大動脈遠位部にパイプを挿入して,脱血路,送血口としなければなりません.上行大動脈に動脈硬化の病変がある症例では,挿入部の大動脈壁から硬化性病変のかけらが飛び散って脳の血管に詰まり,脳梗塞をおこす事があります.この他,人工心肺の血流はどうしても拍動を有する自然の血流とは違うために,各臓器のどこかに弱点がある症例では,この非生理的血流が影響して,術後腎不全や術後肝不全などの臓器機能障害を招く事があります.
開心術は,人工心肺による非生理的循環を採用する手術であり,体力的にも大きな負担となります.このために免疫力の低下が出現する症例も多く,術後の創部や肺などの感染が問題となりうるのです.
これらの諸要因のために,技術的な進歩を見た現在でも,開心術を乗り切れない患者さんがいます.その発生率(手術死亡率---開心術中,あるいは術後に合併症の発生のために死亡する確率)は:
冠動脈バイパス術(緊急手術を除く)では 1〜2%
弁置換術では 3〜5%
大動脈近位部に対する手術で 3〜10% ほどになります.
一方,これらの手術を必要とする患者さんが,もしも手術を受けなかった場合に近い将来に心臓死する確率は,といえば,通常はるかに高いものであるわけです.心臓病,という命に直結した疾患を治癒させ,生活の質を確保するために,開心術の有する危険性,というハードルを乗り切る必要がある,というのが,今もって,心臓外科治療の現状であることは事実です.